青木庄一(あおきしょういち)にとって、その日の出来事は少しばかり奇妙な体験であった。
といっても、午前中の間はいつもと同じ、のどかで退屈な時間を過ごしていたのだ。青木は、カウンターとは名ばかりの一畳広間に腰を下ろし、古びた大判の本に目を落としていた。
店の中には、その青木が手に持っているものとほぼ同じくらいの年代のものであろうと思われる大判の書籍や、同様の古さの豪華本が、壁一面に隙間なく敷き詰められている。店内は、写真から浮き出てきたかのごとく、セピア色一色に統一されていた。
青木はこの古書店の店主なのである。
青木の店は、お世辞にもよく繁盛しているとは言い難い。その理由は、棚に並んでいる本を一冊一冊眺めてみれば自ずとわかる。江戸瓦版の第一刷、シェイクスピア全集の初版本、ギリシア・ローマ神話、北欧神話など神話体系の豪華本、ラテン文字表記の、いかにも年期の入った旧約聖書。ルーン文字で記された古代文書……。
いずれのものにも、常人には手の届かないような値がついている。しかし、どれもこれもその道の研究者にとってはのどから手が出るほど欲しいものばかりなのである。その辺りが、青木の店が今日まで潰れずに残っている所以でもあろう。
店を訪れる客の数は極端に少ない。多くとも一日に数十人というところだろう。そのような店であるから、客が入ってくると自然と青木は客を観察することになる。これは万引き防止も兼ねているのだが、それでなくとも、何となくセピア色の中に映えるそれを観察せざるを得ないような気持ちになるのである。
その日の午後の昼下がり、青木がおや、と感じたのは、彼の店に若者が一人、静かに滑り込んできたからである。
青木は今年、齢四十を数えるが、彼の店にやってくる客は大抵彼より一回りか二回りくらい上の年齢層の客が多い。しかも、それらの多くは研究者や学者先生方である。たまに一般客が立ち寄ることもあるが、品揃えと値札を見るとすぐに立ち去ってしまう。貧乏学生や普通の若者に買えるような値段の本はほとんど置いていない。
だから最初、青木はその若者を万引犯か冷やかし客であろうと考え、いつもよりも特に注意を払って、本の端からちらちらと若者を観察していた。
するとどうだろう。万引犯や冷やかし客は、大抵店内をあてもなくふらふら歩き回るものなのだが、その若者は一つの棚の前に立ち止まったきり、そこを動こうとせず、熱心に棚の書籍に見入っているのである。
今時、このような若者もいるのか、と青木は少なからず感心した。彼はおそらく、どこかでこの店の噂を聞きつけ、わざわざやってきたのであろう。そうでもなければ、このような寂れた小さな古書店に若者がやってくるいわれはない。きっとそうに違いない、と青木は思った。
ふと、若者の興味を引いた本はいったい何なのであろうかという疑問が、青木の頭をよぎった。改めて、その若者の立っている前の棚に並んでいる古書群を思い浮かべてみる。
青木はあっ、と声を挙げそうになった。額からわずかに冷や汗が噴き出す。つい、本の端から若者の顔を凝視した。
年の頃は二十前後だろう。痩せた、どこか神経質そうな、青白い顔をした若者である。そのような若者があの棚の前に立ち、本を手に取って熱心に見入っているのだ。
今のうちに制止の声を掛けるべきであろうか、と青木は考えた。若くしてあれらの本の魅力に取り憑かれ、自殺を試みた者や殺人に走った者、また、不明の死を遂げた者を、青木は幾人も知っていた。
青木は制止の声を掛けようかと立ち上がりかけた。いやしかし、彼がただの研究者であるならば、これほど失礼なこともない。青木は迷った。
番台の内で青木が一人悩んでいるうちに、青年は棚から二、三冊の書籍を手に取り、青木の座っているところへと歩み寄ってきた。座敷の前に控えめに置いてある小さな長机の上に、手にしていた古書を丁寧に置いた。
青木は傍らから茶色縁の眼鏡を取り、長机の上の本を眺めた。『黒魔術入門」『アクマキトウ書』『ヨーロッパ地方伝承に於ける悪魔の分類系譜』などの装丁本が目の前に並んでいる。若者が立っていた棚は、一時、青木が趣味で集めた神秘学、特に悪魔、黒魔術に関する書籍が並んでいる棚であったのだ。
青木は、できるだけ冷静さを保ちながら、頭の中で算盤を弾いた。少しばかり裕福な学生ならば、金を貯めれば買えるかもしれない、といった値段である。
青木は吹っかけた。実際の値の倍を、若者に提示したのだ。
理由はどうあれ、この若者にこれらの古書は分不相応である、と青木は考えた。ともかく、買わせないのが最も安全だ。自殺されたり、犯罪に走られたりしては、こちらも寝覚めが悪い。
ところがその若者は、メリヤスの紺色ズボンの後ろポケットを探ったかと思うと、異様に膨らんだ黒色の財布を取り出した。留め金を外して内側を開くと、そこには折り畳まれた札がずらりと並んでいた。青木は驚愕した。
若者はそこから一束をつかみ出すと、机の上に整然と並べた。紙の束の額面は青木が提示した金額と同じだけあった。
青木は若者に本を売るしかなかった。
若者は古書店を後にした。若者が店から姿を消すや否や、青木は座敷から立ち上がり、机の引き出しの中から鍵束を取り出した。カーテンを引き、玄関入り口に錠を施し、本日休業の札を掛けた。
青木は、初めて客の後を尾行しようと思い立った。財布の中に入っていた、あの大量の金。あれはおそらく、彼の全財産なのだろう。普通、全財産を持ち歩くような者は、まずいない。しかも、その大事な金であのような本ばかりを買っていったのである。
彼は危険だ。青木はそのような感触を覚えた。今からでも遅くはない。できるならば、彼の居場所を突き止めて、あれらの本を読んでどうしようというのか詰問してみたかった。
彼が戸締まりをしている間に、若者の姿はかなり小さくなっていた。
少し焦りながら、勉は若者の後を走って追いかけた。下駄が地面をカツカツ叩く。青木はまずいと思ったが、今から靴に履き替えに戻っては、確実に見失ってしまう。青木は必死で下駄の音を殺し、若者の後を尾けた。
数分ほど、若者の尾行を続けた頃だろうか。少しばかり距離が開き過ぎて、青木がもう少し距離を詰めようと考えたときのことだ。何の気なしに前をとぼとぼ歩いていた若者が、ある角口を急に曲がったのだ。
しまった、と思った。やはり感づかれていたようである。青木は小走りでその角へ近づき、少し間をおいて角を曲がった。
その先の道路に、あの若者の姿は影も形もなかった。ただ、沈みかけた夕日に照らし出された黄燈色の景色が広がっているだけであった。
次の日の朝、青木が新聞記事を眺めていると、その三面下部あたりに四段組の小さな記事を発見した。
ここから少し離れた町にある、あるアパートの一室で、二十歳前後の青年の惨殺死体が発見されたという記事だ。
その青年の身体には、大型の獣か何かに引き裂かれたかのような裂傷が無数にあったらしい。その裂傷と一致するような凶器はまだ発見されていないという。
