2005年08月25日

第九夜

 海に行かないか、と恋人が誘うので、車に乗って隣県の海水浴場まで行きました。
 そこは地元では有名な場所でして、わたしたち以外にも多くのカップルや家族連れが詰めかけていました。かといって混雑しているわけでもなく、いいときに来たね、と二人で頷き合いました。
 わたしは早速水着姿になりました。自分で言うのも何ですが、わたしは胸もそこそこに豊かで、スタイルにはちょっぴり自信があります。ですから水着姿になることにはさほど抵抗はなく、むしろ欲求不満を解消するチャンスとばかりに、大胆になってみたりするのです。
 しばらくは浜に近いところで、二人で戯れていました。そうしているうち、もう少し沖に出てみようと彼が言うので、わたしも従って沖へと泳ぎ出しました。
 二、三分ほど泳いだ頃でしょうか。沖の方から少しずつ、雲行きが怪しくなってきたのです。私がそれを告げると、彼も気付いたようです。
 いつの間にか辺りに人気はなく、広がる海上にわたしたちだけが浮かんでいます。気味が悪くなって、早く浜に戻ろうと彼を急かしました。
 そのときです。私は波間に信じられないものを見たのです。
 波のうねりの中からゆらゆらと、何かが揺れ動いているのが見えました。
 それは、人間の手でした。五本指の、青白い手が海面に揺れていました。
 手は一つではありませんでした。いくつもの手が海上に突き出し、沖へと招くように蠢いていたのです。
 わたしたちは、必死で浜へ向かって泳ぎました。それなのになぜか、浜辺は一向に近づく気配がありません。まるで手の群れに吸い寄せられるような、そんな感触が水を伝って身体に滲んでくるようでした。
 それでもわたしは諦めず、必死で腕と脚を動かしました。いつか彼の姿を見なくなりましたが、気にしている余裕はありませんでした。
 ようやくのことで、浜辺へとたどり着いたわたしは、恐る恐る振り返ってみました。
 不気味な手の大群は、いつの間にか消え失せていました。そして遠くで空が光るのを見ました。一瞬の後、雷鳴が響きわたりました。
 翌日、恋人は溺死体で発見されました。あれ以来、わたしは一度も海へは行っていません。
posted by 茶林小一 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 夏の夜の怖い話