2005年07月22日

第六夜

 一年ほど前のことです。
 私はビル清掃の仕事に就いています。一つのビルだけでなく、地区内のあちこちのビルに派遣され、清掃日や一定期間だけ清掃に従事するというシステムで働いています。
 その日はとある高層ビルの点検清掃ということで、私は屋上の清掃を担当していました。
 屋上の床から給水タンク、非常階段の清掃が終わった頃には日が沈みかけ、辺りは薄暗くなりつつありました。
 日が暮れて暗くなる前に仕事が終えられてよかったと私は安堵しました。照明がない屋上の掃除は日の光だけが唯一の頼りです。特に暗闇における非常階段の清掃は墜落の危険がありますから、夜間や雨の日には絶対に行いません。
 私は道具を片付け、引き上げる準備をしていました。そのときです。
 私の後ろで、どすんと何かが落ちるような音がしました。
 何だろう、と私は思いました。この屋上に、動くものなど何もありません。あるとすれば私の持ってきた掃除道具くらいですが、道具はすべて回収したはずでした。
 何か忘れ物でもしていただろうかと、私は振り返って辺りを点検してみました。そして私はそこに、あり得ないものを見たのです。
 給水タンクの前辺り、屋上全体からいえばちょうど中央部辺りに、人が倒れていたのです。
 その人はスーツ姿で、大の字に寝そべっていました。性別は男性のようでした。ようでした、というのには。その人の顔は、まるで高いところから落ちて屋上の床に叩きつけられたかのように、ひしゃげて本来の半分くらいの大きさになっていたからです。側には砕けた眼鏡の破片が飛び散り、赤い血液が磨いたばかりの床に染みをつくりつつありました。
 私はあまりの驚きにしばらく動けませんでしたが、そのうち恐怖とともに感覚と思考が戻ってきました。私はモップを抱えたまま慌てて扉に飛びつき、汗で滑る掌を何とか動かしてノブを回し、階段を転げ落ちるようにして屋上から逃げ出しました。
 五分ほど経って、管理責任者と共に私は屋上に戻りました。そして責任者と一緒に中央部まで近づきました。
 しかしそこには、何もありませんでした。さっき私が確かに見た、あの墜落死体は跡形もなく消え去っていたのです。
 流れ出ていたはずの血液の跡も、ありませんでした。そこにはただ、磨かれた床だけがありました。
 ここに死体があったんだ。本当です。嘘じゃない。
 私は必死で訴えました。五十代くらいの管理責任者は、私の訴えを小さく頷きながら聞いていましたが、明らかに信じていない様子でした。
 結局何もわからぬまま、私はビルを辞しました。
 今でも私の脳裏には、あの光景が焼き付いています。死体に触れたわけではありませんでしたが、私にとってはあれは確かに現実に起こったことだったのです。死体がなぜ消えてしまったのか。私には今でもわかりません。
 もう一つ、後から気付いたことがあります。
 あのビルは地上数十階という高層ビルでした。そして周囲には、あのビルより高い建築物はなかったはずなのです。
 もしも彼がどこかからあの屋上に落ちてきたのだとすれば。彼はいったいどこから墜落したのでしょうか。
posted by 茶林小一 at 00:13| Comment(0) | TrackBack(1) | 夏の夜の怖い話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする