2005年07月14日

第三夜

 駅に向かって歩いているわたしの左耳に何か冷たいものが落ちてきました。
 見上げると、頭上に電線がありました。ついさっきまで雨が降っていたからでしょうか。電線を雨水が伝い、それが時折水滴となって、アスファルトの上へと落ちてきます。それがたまたま、通りがかったわたしの左耳に当たったようでした。
 運が悪かったということは言えますが、まあそれほど大したことではありませんので、手で耳についた水を拭うともう忘れてしまいました。
 そのことを思い出したのは自宅に帰り着いてからのことです。
 電車に乗っているときから、左側から奇妙なノイズが聞こえるな、とは思っていました。が、気にしなければどうということはない程度だったので、そのうち収まるだろうと思い放っておきました。
 ですが現実には、ノイズは収まるどころか音量を増し、静かなワンルームに帰り着いたときに、わたしはその左耳の異状に気付いたのです。
 夜は遅く、病院は軒並み閉院している時間です。緊急病院なら開いていると思いますが、ノイズが聞こえる以外は痛みも何もないので、とりあえず一日様子を見ようと思いました。一晩眠れば明日の朝には治っているかもしれない。そう思ったのです。
 ベッドに入り、目を閉じたとき。わたしはそのノイズがただのノイズではなく、どうやら人の声らしいことに気が付きました。
 耳をすませて、その声を聞き取ろうと試みてみました。
「……もしもし。Sさん?」
 聞き取れた話しぶりから、ああ、これは電話の話し声だと思いました。そして今日の帰宅時、左耳に電線から落ちてきた水滴を受けたことを思い出したのです。
 どうやらわたしの左耳は、電話線と混線してしまったようでした。どういった原理なのかはわかりません。ただ、何らかの理由でわたしの左耳に電話線を通るはずの話し声が聞こえるようになってしまっている。それは事実でした。
 最初は戸惑ったわたしでしたが、そのうちにこの状況を楽しむようになりました。いつまでこの状態が続くかわからない。明日の朝になったら、元に戻っているかもしれない。だったら今のこの状況を楽しもう。そう思ったのです。
 聞こえてくる会話は、どうやら脅迫電話のようでした。ボイスチェンジャーを通したような甲高い男の声が、怯えた声の女性に何かを要求しているようでした。回線の状態が悪いのか、話がブツブツ切れて聞き取りにくく、詳しい内容はわかりませんでした。
 何とか聞き取ろうと、一段と耳をすませたときでした。
「……を殺すんだ」
 そんな言葉が、はっきりと聞こえたのです。
 わたしはベッドから飛び起きました。大変な会話を聞いてしまった。そう思いました。
 深い考えもなく、そばにあった携帯電話を取り上げました。そして即座に一一〇番しました。もちろんこんなこと、警察に話したところで信じてもらえるはずはありません。ですがそのときのわたしは、そこまでは考えていなかったのです。
 呼び出し音が二回鳴ったあと、電話が繋がりました。わたしは電話を右耳に押しつけました。
「もしもし、警察ですか? 実は今さっき……」
「貴様、聞いていたな?」
 電話口から聞こえてきたのは、ボイスチェンジャーを通したような奇妙な男の声でした。
 それからあとのことは、よく覚えていません。
 あのときからわたしはずっと、この部屋に閉じこもっています。左耳からは絶え間なく、「殺してやる」という甲高い男の声が聞こえてきます。
 声は時間が経つにつれ大きくなります。部屋の外からドンドンと扉を叩く音が聞こえます。
 わたしは、いったいどうすればいいのでしょうか……。
posted by 茶林小一 at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 夏の夜の怖い話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする