それを見たのは最終電車の中でした。
その日も残業で遅くなりまして。オフィスを抜け出したのは終電に間に合うかどうかという時間でした。
そんな状況でしたから、何も考えず、やって来た車両に飛び乗りました。
おかしいと思ったのは、扉が閉まり、列車が動き始めてからでした。
知らない方は意外に思うかもしれませんが、終電って結構混み合っているものなんです。これを逃すと、次の電車はないわけですからね。多くの人が、例えば私のように仕事を切り上げて、何とかこの電車に乗ろうと駆けつけてくるわけです。
なのに見渡してみれば、車輌は私の貸し切り状態。しかも、よくよく目を凝らせば、蛍のようなものが時折明滅しながら辺りを飛び回っている。
こりゃあまずい。そう思いました。何だか現実とは違う世界に迷い込んだと、直感的に気付いたんです。
次に列車が停まったら降りよう。そう決めて、とりあえずシートに腰を下ろしました。
窓の外を景色が流れていきました。暗かったのでよくわかりませんが、その景色も、いつもの車窓から見える景色とは何だか違っているような気がしました。
しばらくすると、車両の後部ドアが開きました。見ると、連結部を通って制服に身を包んだ車掌が入ってきました。自分以外にも人間がいた。そう思った私は少し安心しました。
車掌はゆっくり私に近づいてきました。私が喜びのあまり声をかけようとしたそのとき。車掌が先に口を開きました。
「乗車券を拝見」
背筋が冷たくなる声でした。外見だけを見れば、普通の人間。ですが、身に纏ってるオーラというか雰囲気が、やっぱり普通の人間とは違っていました。
最終電車で改札というのもおかしなことです。酔っぱらいや眠りこけている者が多い終電で、改札が行われることはまずありません。
私は恐怖で硬直した身体を無理矢理動かし、定期券を取り出しました。
車掌はしばらくそれを眺めていました。
「あんた、生身だね」
とっさのことで何のことかわかりませんでしたが、生身には違いなかったので私は頷きました。
「次の駅で降りてください。今度は、ちゃんと死んでから乗ってくださいよ」
定期券を私に返し、それだけ言うと、車掌は次の車輌へと去っていきました。
電車がスピードを落としました。どうやら駅に着いたようでした。
私はシートから立ち上がり、ドアが開くと同時に外へ飛び出しました。地面と、それから次に辺りを見回しました。街灯に照らし出されたそこは、いつもの見慣れた駅でした。
振り向くと、列車は影も形もありませんでした。
あれはいったい何だったのだろうか。私は今でも考えます。車掌の言葉から予想するなら、あれは死者の乗る特別列車だったのでしょう。そしてその列車に、私は間違えて乗り込んでしまったのでしょう。
いやそれ以前に、私が体験したことは本当にあったことなのかどうか。残業で疲れ果てた私が、ただ夢を見ていただけではないのか。
真実は、わかりません。ただ一つ確かなことは、あの日までまだ黒さを保っていた私の頭髪は、一日で灰色に変化してしまったということです。
それでもまあ、もしあれが本当にあったことだったとしたら。白髪が増えるくらいで済んだのなら安いものだったと思います。
だって私は今でもこうして、生きてここにいられるんですから。
ねえ。


