2007年06月26日

連れてゆく

 あいつがナタリーに妙な感情を抱いているのは知っていた。
 最初に気付いたのは一ヶ月ほど前。親子のスキンシップにしては少々不自然な部位を不自然な形で触っているのが気になった。視線を合わせて、ぞっとした。それは我が子を慈しんでいる眼ではなかった。
 下着を漁っているのを目にしたのが決定的だった。わたしに気付かず娘のスキャンティを鼻に当てていたあいつのジーンズに目をやって、全身の血の気が引く思いがした。
 何とかしなければならない。そう思った。
 あいつはもちろん、わたしだって、正直なところまっとうな人生を歩んできたとはいえない。その履歴は泥に汚れ、一部分は真っ黒に塗りつぶされている。わたしたちは出逢ってから、互いの身体に被った汚物や多くの傷を舐めあって生きてきたのだ。その結果の一つとして、ナタリーが生まれた。
 わたしたちがそんなだからこそ、ナタリーにはまっとうな人生を歩んでもらいたい。わたしはそう思っていた。なのにあの子は、スタート地点からすでに、汚泥に片足を突っ込んでいたのだ。
 守ってやれるのはわたししかいなかった。だからわたしは、あいつの胸にアイスピックを突き立てたのだ。
 ナタリーには、あいつは出ていったと言った。彼女は驚くことも質問することもしなかった。そして意外だったことに、安堵の表情も浮かべなかった。
 翌日から、ナタリーのわたしに対する態度が変わった。できるだけわたしに近付かないように。わたしと言葉を交わさないように。はっきりと、よそよそしくなった。もしかしたらわたしがあいつを殺したことに、ナタリーは感付いているのかもしれない。だが、いつかはわかってくれるはず。そう思っていた。
 誤りに気付いたのは三日後だった。ポークビーンズをつくるためにキッチンに立っていたら、背後から視線を感じた。振り向くと、五歩ほど離れた場所にナタリーが立って、わたしを睨み付けていた。瞳に燃えていたのは、憎悪だった。
 すべてを理解した。全身が凍り付き、時間が止まったような感覚が皮膚にまとわりついた。
 汚泥に捕らわれていたのは、わたしだったのだ。そしてわたしは、足どころか、首まで底なし沼に沈み込んでいたのだ。
 あいつを殺したって、何も変わらなかったんじゃないか。もう手遅れだったんじゃないか。
 神様。あんたはわたしを、どこまでも闇の中へ引きずり込んでいくのかい?
 わたしの手首を、青白い指が掴んだ。
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posted by 茶林小一 at 21:54| Comment(31) | TrackBack(0) | どす黒い袋の底から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月17日

トリック、オア

 メルビンは、自分の影が薄いことには前々から気がついていた。
 集団の中にいると、誰も自分に気付かない。誰も自分に話しかけようとしない。メルビンは、そんな子どもだった。
 彼自身も大人しく、人見知りをする性格だから、普段はそれでも何の問題もなかった。ただ、フットボールの時間や、何かの行事があったときには、彼はいつも疎外感を味わうことになるのだった。
 フレディやジェイソンのようなクラスの人気者に自分がなれるとは思っていないし、なろうとも思わない。が、せめて人並みの存在感というものを、メルビンは手に入れたかった。
 今年のハロウィンがやってきたのは、メルビンが思いを固めたちょうどその頃だった。
 メルビンはこのイベントが、大の苦手だった。
「トリック、オア、トリート!」
 顔面を緑色に塗りたくったメルビンが大声で叫ぶ。だが、誰もメルビンには気付かない。友だちのマイケルや、留学生の貞子でさえクッキーの袋をもらっているというのに、メルビンのところには一袋さえ渡ってはこない。
「トリック、オア、トリート!」
 声も涸れんとばかりに、メルビンは叫ぶ。自分はここにいる。そのことを知らせるために、メルビンは叫ぶ。
 だが、存在を証明するためのキャンディーやチョコレートが、メルビンに向かって投げられることはなかった。
 いつしか、彼の相貌からは涙がこぼれ落ちていた。頬を濡らしながら、彼は声を張り上げ続けていた。
 日が落ち、街に夕闇が訪れようとしていた。
 緑色の身体のまま、彼は一人中央通りを歩いていた。
 クラスメイトたちは皆、満足げな顔で帰路に就いた。だが、メルビン一人が、手ぶらで街道をとぼとぼと進んでいた。そしてそんなメルビンに気付くものは、誰一人いなかった。
 ボクはこの世界に必要ないんだ。メルビンは呟いた。こみ上げてくる衝動が抑えられず、肩が小刻みに震えた。
 認めて欲しいだけなんだ。存在を、認めて欲しいだけなんだ。そう大声で叫びたかった。だが声も、気力も涸れ尽くしていた。
 いったい僕が何をしたというんだ。メルビンの濡れた瞳に、暗い憎悪が灯った。
 視線の先に一軒のケーキ店があった。
 ここにならお菓子がたくさんある。僕の存在を認めてくれるものが、たくさんある。
 手に持った玩具の鉞に光が宿った気がした。緑の皮膚は塗料ではなくなっていた。ケーキ店に向かって歩むメルビンの足が薄くなり、夕闇に溶け込んでいった。
posted by 茶林小一 at 00:26| Comment(8) | TrackBack(1) | どす黒い袋の底から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月01日

魔書

 青木庄一(あおきしょういち)にとって、その日の出来事は少しばかり奇妙な体験であった。
 といっても、午前中の間はいつもと同じ、のどかで退屈な時間を過ごしていたのだ。青木は、カウンターとは名ばかりの一畳広間に腰を下ろし、古びた大判の本に目を落としていた。
 店の中には、その青木が手に持っているものとほぼ同じくらいの年代のものであろうと思われる大判の書籍や、同様の古さの豪華本が、壁一面に隙間なく敷き詰められている。店内は、写真から浮き出てきたかのごとく、セピア色一色に統一されていた。
 青木はこの古書店の店主なのである。
 青木の店は、お世辞にもよく繁盛しているとは言い難い。その理由は、棚に並んでいる本を一冊一冊眺めてみれば自ずとわかる。江戸瓦版の第一刷、シェイクスピア全集の初版本、ギリシア・ローマ神話、北欧神話など神話体系の豪華本、ラテン文字表記の、いかにも年期の入った旧約聖書。ルーン文字で記された古代文書……。
 いずれのものにも、常人には手の届かないような値がついている。しかし、どれもこれもその道の研究者にとってはのどから手が出るほど欲しいものばかりなのである。その辺りが、青木の店が今日まで潰れずに残っている所以でもあろう。
 店を訪れる客の数は極端に少ない。多くとも一日に数十人というところだろう。そのような店であるから、客が入ってくると自然と青木は客を観察することになる。これは万引き防止も兼ねているのだが、それでなくとも、何となくセピア色の中に映えるそれを観察せざるを得ないような気持ちになるのである。

 その日の午後の昼下がり、青木がおや、と感じたのは、彼の店に若者が一人、静かに滑り込んできたからである。
 青木は今年、齢四十を数えるが、彼の店にやってくる客は大抵彼より一回りか二回りくらい上の年齢層の客が多い。しかも、それらの多くは研究者や学者先生方である。たまに一般客が立ち寄ることもあるが、品揃えと値札を見るとすぐに立ち去ってしまう。貧乏学生や普通の若者に買えるような値段の本はほとんど置いていない。
 だから最初、青木はその若者を万引犯か冷やかし客であろうと考え、いつもよりも特に注意を払って、本の端からちらちらと若者を観察していた。
 するとどうだろう。万引犯や冷やかし客は、大抵店内をあてもなくふらふら歩き回るものなのだが、その若者は一つの棚の前に立ち止まったきり、そこを動こうとせず、熱心に棚の書籍に見入っているのである。
 今時、このような若者もいるのか、と青木は少なからず感心した。彼はおそらく、どこかでこの店の噂を聞きつけ、わざわざやってきたのであろう。そうでもなければ、このような寂れた小さな古書店に若者がやってくるいわれはない。きっとそうに違いない、と青木は思った。
 ふと、若者の興味を引いた本はいったい何なのであろうかという疑問が、青木の頭をよぎった。改めて、その若者の立っている前の棚に並んでいる古書群を思い浮かべてみる。
 青木はあっ、と声を挙げそうになった。額からわずかに冷や汗が噴き出す。つい、本の端から若者の顔を凝視した。
 年の頃は二十前後だろう。痩せた、どこか神経質そうな、青白い顔をした若者である。そのような若者があの棚の前に立ち、本を手に取って熱心に見入っているのだ。
 今のうちに制止の声を掛けるべきであろうか、と青木は考えた。若くしてあれらの本の魅力に取り憑かれ、自殺を試みた者や殺人に走った者、また、不明の死を遂げた者を、青木は幾人も知っていた。
 青木は制止の声を掛けようかと立ち上がりかけた。いやしかし、彼がただの研究者であるならば、これほど失礼なこともない。青木は迷った。
 番台の内で青木が一人悩んでいるうちに、青年は棚から二、三冊の書籍を手に取り、青木の座っているところへと歩み寄ってきた。座敷の前に控えめに置いてある小さな長机の上に、手にしていた古書を丁寧に置いた。
 青木は傍らから茶色縁の眼鏡を取り、長机の上の本を眺めた。『黒魔術入門」『アクマキトウ書』『ヨーロッパ地方伝承に於ける悪魔の分類系譜』などの装丁本が目の前に並んでいる。若者が立っていた棚は、一時、青木が趣味で集めた神秘学、特に悪魔、黒魔術に関する書籍が並んでいる棚であったのだ。
 青木は、できるだけ冷静さを保ちながら、頭の中で算盤を弾いた。少しばかり裕福な学生ならば、金を貯めれば買えるかもしれない、といった値段である。
 青木は吹っかけた。実際の値の倍を、若者に提示したのだ。
 理由はどうあれ、この若者にこれらの古書は分不相応である、と青木は考えた。ともかく、買わせないのが最も安全だ。自殺されたり、犯罪に走られたりしては、こちらも寝覚めが悪い。
 ところがその若者は、メリヤスの紺色ズボンの後ろポケットを探ったかと思うと、異様に膨らんだ黒色の財布を取り出した。留め金を外して内側を開くと、そこには折り畳まれた札がずらりと並んでいた。青木は驚愕した。
 若者はそこから一束をつかみ出すと、机の上に整然と並べた。紙の束の額面は青木が提示した金額と同じだけあった。
 青木は若者に本を売るしかなかった。
 若者は古書店を後にした。若者が店から姿を消すや否や、青木は座敷から立ち上がり、机の引き出しの中から鍵束を取り出した。カーテンを引き、玄関入り口に錠を施し、本日休業の札を掛けた。
 青木は、初めて客の後を尾行しようと思い立った。財布の中に入っていた、あの大量の金。あれはおそらく、彼の全財産なのだろう。普通、全財産を持ち歩くような者は、まずいない。しかも、その大事な金であのような本ばかりを買っていったのである。
 彼は危険だ。青木はそのような感触を覚えた。今からでも遅くはない。できるならば、彼の居場所を突き止めて、あれらの本を読んでどうしようというのか詰問してみたかった。
 彼が戸締まりをしている間に、若者の姿はかなり小さくなっていた。
 少し焦りながら、勉は若者の後を走って追いかけた。下駄が地面をカツカツ叩く。青木はまずいと思ったが、今から靴に履き替えに戻っては、確実に見失ってしまう。青木は必死で下駄の音を殺し、若者の後を尾けた。
 数分ほど、若者の尾行を続けた頃だろうか。少しばかり距離が開き過ぎて、青木がもう少し距離を詰めようと考えたときのことだ。何の気なしに前をとぼとぼ歩いていた若者が、ある角口を急に曲がったのだ。
 しまった、と思った。やはり感づかれていたようである。青木は小走りでその角へ近づき、少し間をおいて角を曲がった。
 その先の道路に、あの若者の姿は影も形もなかった。ただ、沈みかけた夕日に照らし出された黄燈色の景色が広がっているだけであった。

 次の日の朝、青木が新聞記事を眺めていると、その三面下部あたりに四段組の小さな記事を発見した。
 ここから少し離れた町にある、あるアパートの一室で、二十歳前後の青年の惨殺死体が発見されたという記事だ。
 その青年の身体には、大型の獣か何かに引き裂かれたかのような裂傷が無数にあったらしい。その裂傷と一致するような凶器はまだ発見されていないという。
posted by 茶林小一 at 11:30| Comment(0) | TrackBack(1) | どす黒い袋の底から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月27日

ぽたん

 ぽたん。
 額に何か冷たいものが落ちてくる。
 見上げてみると、そこにはいつもと同じ古びた天井。そこに見慣れぬシミのようなものが一つ、できている。
 ぽたん。
 僕の上にまた一滴、冷たい液体が落ちてくる。拳で拭って確かめてみる。
 これはいったい何なんだろう。当然の疑問が頭に浮かぶ。
 ぽたん。
 また一滴、落ちてくる。
 上に住んでいるのはどんな人だったろう。思いを巡らせてみる。男性? 女性? 若者? お年寄り? 一人住まい? 大家族? ……まったく思い出せない。
 ぽたん。
 いや。そんなことより、上で何かあったのだろうか。天井にシミができるほど、上の部屋は何かの液体で溢れているのだ。
 いったい何があったのだろう。
 ぽたん。
 液体を拭った手を見る。ちょっと黄色みがかった赤色に汚れている。
 こんな色の液体、何かあっただろうか。様々なものを思い描いてみるが、これだというものには思い当たらない。
 ふと、気がついた。そうだ。人一人がどろどろに溶けてしまって、血や体液が混じり合ったらちょうどこんな色になるかもしれない。
 ぽたん。
 上で何が起こっているのだろう。覗いてみたい。確かめてみたい。そんな衝動が湧き起こる。
 だが確かめたが最後、今の平穏な生活は二度と戻ってこない。そんな禍々しい匂いが、天井からはしている。言葉では説明できない、予感めいたもの。
 そういえばこのマンションに入る前に、聞いたことがある。
 あのマンション、住人を食べちゃうのよ。
 ……そんな噂が、年輩のおばさんたちの間で流れているって。
 どこにでもある怪談話。どこにでもある都市伝説。そう漠然と思っていた。
 ただそれだけのはず。そんなものを信じちゃいない。
 けれどもこれは何なんだろう。だったらこれは、何なんだろう。
 調べてみれば、わかるだろうさ。わずかに残った好奇心。それがノブに手を掛けさせる。
 いやだ。いやだ、いやだいやだいやだ。
 僕は自分の意志でここに閉じこもったのだ。何も考えなくていいように、僕はこの部屋に閉じこもったのだ。
 トラブルはごめんだ。闇に引きずり込まれるのはごめんだ。触れたくない。何も考えたくない。何も刺激を受け入れたくない。何も僕に、干渉するな。
 そして僕は部屋の隅で膝を抱えた。


 今日も液体は落ちてくる。次は僕の、番かもしれない。



 ぽたん。
posted by 茶林小一 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | どす黒い袋の底から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

第九夜

 海に行かないか、と恋人が誘うので、車に乗って隣県の海水浴場まで行きました。
 そこは地元では有名な場所でして、わたしたち以外にも多くのカップルや家族連れが詰めかけていました。かといって混雑しているわけでもなく、いいときに来たね、と二人で頷き合いました。
 わたしは早速水着姿になりました。自分で言うのも何ですが、わたしは胸もそこそこに豊かで、スタイルにはちょっぴり自信があります。ですから水着姿になることにはさほど抵抗はなく、むしろ欲求不満を解消するチャンスとばかりに、大胆になってみたりするのです。
 しばらくは浜に近いところで、二人で戯れていました。そうしているうち、もう少し沖に出てみようと彼が言うので、わたしも従って沖へと泳ぎ出しました。
 二、三分ほど泳いだ頃でしょうか。沖の方から少しずつ、雲行きが怪しくなってきたのです。私がそれを告げると、彼も気付いたようです。
 いつの間にか辺りに人気はなく、広がる海上にわたしたちだけが浮かんでいます。気味が悪くなって、早く浜に戻ろうと彼を急かしました。
 そのときです。私は波間に信じられないものを見たのです。
 波のうねりの中からゆらゆらと、何かが揺れ動いているのが見えました。
 それは、人間の手でした。五本指の、青白い手が海面に揺れていました。
 手は一つではありませんでした。いくつもの手が海上に突き出し、沖へと招くように蠢いていたのです。
 わたしたちは、必死で浜へ向かって泳ぎました。それなのになぜか、浜辺は一向に近づく気配がありません。まるで手の群れに吸い寄せられるような、そんな感触が水を伝って身体に滲んでくるようでした。
 それでもわたしは諦めず、必死で腕と脚を動かしました。いつか彼の姿を見なくなりましたが、気にしている余裕はありませんでした。
 ようやくのことで、浜辺へとたどり着いたわたしは、恐る恐る振り返ってみました。
 不気味な手の大群は、いつの間にか消え失せていました。そして遠くで空が光るのを見ました。一瞬の後、雷鳴が響きわたりました。
 翌日、恋人は溺死体で発見されました。あれ以来、わたしは一度も海へは行っていません。
posted by 茶林小一 at 10:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 夏の夜の怖い話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

 虫を殺した。
 俺が道を歩いていると、小さな虫が顔の前を飛んでいた。肉眼ではどのような姿をしているのかわからないほど、小さな虫だ。俺は虫を手で払った。が、虫は俺の目の前を飛び続けた。そこで、俺はだいたいの見当を付け、目の前の虚空を掴んだ。
 握った手を開くと、中指と薬指の間に、小さな虫が一匹、潰されていた。中指には少々黒っぽい筋がついていた。
 俺は虫を捨てようと、手を振った。が、虫は落ちなかった。二度三度と振ったが、虫は俺の指に張り付き続けた。それが何とも虫の執念を見たような気がして、少しゾッとした。
 俺はティッシュペーパーを取り出し、指を拭った。ティッシュペーパーは、近くの屑籠に放り込んだ。

 虫が見えるようになった。
 俺の目の前を、虫が飛ぶのだ。手を伸ばすが、触れない。羽音もしない。もちろん、幻覚だ。
 このような幻覚を見るようになったのは、あの日から後のことだ。あの日とは、虫を握りつぶした日である。ただ、疑問に思うのは、俺はあのことを気に病んでいるわけではない。というか、まったく気にしていなかった。あんなことは、日常茶飯事である。虫を殺したのも、あれが初めてじゃない。それを気にかける要素はまったくなかった。
 にも関わらず、虫が飛ぶ幻覚が、俺には見える。そのことが、自分自身驚きだったし、不思議でもあった。
 幻覚は、いつでも見えるわけではない。ふと気の緩んだとき、それは襲ってくる。目の前がちらちらする、と思えば、どうやらそれが虫らしい。小さい虫なので、それこそ無視して気にしなければどうということもないのだが、こう入ったものは得てして気になるものだ。やはり虫の執念だろうか。俺にはそう考えざるを得ない。

 虫に変化があった。
 音が、聞こえるのだ。あの、ブウウウンという、我々人間にとっては奇妙な、そして大いなる嫌悪感を引き起こす、あの羽音である。俺も多分に漏れず、あの羽音が大嫌いだ。おかげで、ここ数日は半分ノイローゼ状態に陥っている。こうなると、本当に虫の呪いか何かのように思えてくる。悪い状況だ。
 幻覚から音が聞こえるのは、きっとかなり症状が進んでいる証拠に違いない。明日にでも、医者に診て貰おうかと考えている。いや、それよりも、お祓いをして貰ったほうがいいのだろうか……。

 また、虫に変化があった。
 虫が、わかるのだ。どんないやらしい色をしているか、どんな醜い顔をしているか、どのようにおぞましく動いているか、が。
 これはつまり、虫の幻覚が大きくなったことを意味する。今までの幻覚はとても小さく、かろうじてその幻覚が虫である、とわかる程度であったのだ。
 ところが、今見ている眼前の映像は、どうだろう。俺の目玉ほどの大きさの奴が、俺の鼻先で八の字を描き、不気味な羽音を鳴らしながら悠々と飛び回っているのだ。
 しかも、それは一匹じゃない。幻覚は、いつの間にか三匹に増えていた。これもまた、あの虫の執念に違いない。いや、それとも俺の頭が末期症状に入ったのか。
 ああ、なぜ俺は、あの時あの小さな虫を放っておけなかったのか。俺は今、本当に後悔していた。小さい頃から、そうだった。ああいった小さい虫を見ると、どうも嫌悪感や気味悪さが先にたつ。あれはいったい、なぜなのだろうか。
 これは、何なのだ? 俺は思った。なぜ俺は、虫を気味悪く思ったり、嫌悪感を抱いたりするのだろう。いや、これは俺だけではない。人間という種全体を通して言えることではないだろうか。現実問題として、虫をまったく触ることができない、という人はたくさんいる。我々の根底に流れる、この嫌悪感の正体。それはいったい、何なのか。
 俺は一人、考え続けた。その目の前を、五、六匹の虫の群れが、ブンブンと飛び交っていた。奴等はまた一回り、大きく成長していた。
posted by 茶林小一 at 11:32| Comment(2) | TrackBack(0) | どす黒い袋の底から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月03日

第八夜

 確か夜八時頃だったと思います。
 私は夜道を歩いていました。真夏といえどもこれくらいの時間になると、辺りはすっかり暗くなり、帳が降りたような状態です。
 私は駅から自宅までの帰路に就いていました。私の住んでいる辺りはそれほど田舎というわけでもないのですが、それでも夕暮れ時から日没までにはコウモリの姿が見られます。ぼんやりとした視野の中をコウモリが二度三度と飛び過ぎるのには驚かされることもありますが、基本的に害はありませんし、これもまあ情緒の一つだと思えば怒りも湧きません。
 その日も道々二羽ほどのコウモリに遭遇しました。その時点ではいつものことだと思い、さほど気に留めていなかったのですが。
 そのときはやけに、コウモリたちが私のちょうど目の前辺りを忙しく飛び回っていました。あまりにも続くので、これは何かおかしいと思ったのです。
 暗闇に目を凝らしてよく見てみますと。最初は二羽ほどに見えていたはずのコウモリが、いつの間にか十羽以上の群れを成していました。コウモリたちはグルグルと回転し、固まり合っていました。そしてそれらが一つにくっついたかと思うと、私の目の前で何と、人型の影になったのです。
 人影はスカートを履いているようでした。体つきからも、どうやら女性の人影のようだと区別できました。人影はそのままふらふらと、揺れながら私と同じ方向へと歩き始めました。その揺れ方がまた、これは何と説明すればいいのかわからないのですが、人が酔っぱらったときの千鳥足といったものとは違う感じの。そう。まるで人の形をした人でないもののような、不気味な歩き方でした。
 私は人影の後ろをついて歩きました。別に後を尾けたり追ったりするつもりはまったくなかったのですが、進行方向が一緒なのだから仕方がありません。背筋に冷たいものを感じながらも、私は歩みを止めずについて行きました。
 一分ほど歩いたでしょうか。人影が歩みを止めました。私もつい一緒になって立ち止まります。いったいどうするのだろうと観察していると、人影は突然、すぐ側の住宅へと入っていきました。その足取りは、先ほどまでの不気味な揺れは見られない、まるで人間のような足取りでした。
 そして私は聞いたのです。ドアの開くような音と。
 ただいま。
 という甲高い人の声を。機械で合成したような、そんなふうでもありましたが、それは確かに日本語で、ただいま、と聞こえました。
 私は少し早足で住宅の前を通り過ぎました。それからは何事もなく、私は無事に自宅に帰り着きました。
 あれ以来、同様の光景を目にしたことはありません。が、あの道を通るときには、つい何かが出るかと身構えてしまうようになりました。そしてあの住宅を目にするたびに、いったいどんな家族が住んでいるのか、この家に入っていったあの影はいったい何だったのかと想像を逞しくしてしまうのです。
 あの家の住人は、はたして普通の人間なのでしょうか。それともひょっとして。
posted by 茶林小一 at 00:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 夏の夜の怖い話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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